2012年02月22日

厄落とし2

 遠山は昨夜の記憶を辿ってみたが、この話が最初から繰り返されたようにそれ以上のなにも出てこない。問題はどこでパンツを脱いだか、だ。パンツを脱ぐような場面、それ自体に対する想像力そのものが遠山にはないのだ。結婚して三五年になるが、この間に家の外でパンツを脱いだのは痔の手術の時だけであった。そのくらい遠山は実直であった。
「な、これがあんたのものではないとしらを切るつもりかい?」
 警官が問い詰めた。
「い、いや自分のもので……」
「ほう、吐いたな。じゃ、何でここにおまえの汚らしいパンツがあるのか、説明してみるかい?」
 そう言われても遠山には思い当たるふしはなかった。しかし、ちょっと違和感を感じた。
「ちょっと、おまわりさん。そのパンツ、もう一回見せてください。」
 遠山はそのパンツをビニール越しに観察した。確かに汚れている。桃色のパンツのそのあたりにそのように汚れが付着している。身体の動きの後が想像される擦れたような汚れ方で、穿いていた人物のぬくもりが伝わってくるような身体感を内包した使用済感に満ちていた。証拠品ではなくとも直に手に触れようとは思いたくないリアリティが主張されていた。遠山は仔細に証拠品をビニール袋を通して点検した。
「これが何処にあったというのですか?」
「遺体のそばさ。」
「遺体?」
「おっと、聞かなかったことにしてくれ。事件はまだ始まったばかりなのでね。まあ、いいさ、おまえがこれを知っていることは犯人だけが知る秘密になるから都合がいい。俺は何も言っていない。だからおまえが犯人だということになる。」
 え、冤罪ではないか。こうやって冤罪は作られるのか。遠山の脳裏を日本の裁判史上に残るいくつかの冤罪事件がよぎった。証拠品袋を持った手がぶるぶる震えた。改めてそのパンツを見つめ直した。自分の人生がかかっているのだ。
「ちがう!」
 遠山は叫んだ。
「ちがう、ちがう、ちがう!」
 遠山はミニパトのドアを開けようとしたが開かない。チャイルドロックが効いていた。
「ふふふ、あがいても無駄だぜ。道警をなめたらいかんぜよ。さあ、行こうかね。と・お・や・ま・・さん。」
 警官は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「話はゆっくり署で聞こうかね。」
 遠山はじっと汚れたパンツの入ったビニール袋を見つめていた。自分の運命を呪った。こんなことで自分の人生が終わりを告げるとはさっきまで考えだにしなかったことだ。全国の酒蔵をめぐり、自分の舌で確かめてきた。いい酒だけを売りたい、というポリシーでここまでやってきた。そして着実に社会的信頼を獲得してきたところだ。ここで、犯罪になんか巻き込まれて今までの努力を無駄にしてたまるもんか。遠山は警官を睨みつけて言った。
「あのね、おまわりさんよ。こんなことで私の人生を台無しにはしたくないんだわぁ。今日から一週間ばかり店を休むからさ、きっちり潔白を証明したいんだな。いいべか。」
「おう、そう言ってくれりゃあ話は早い。さ、行くべ。おい、鈴木、署に行くぞ。車を出せや。」
「待て。店を休むと貼り紙くらいしねぇとせっかく来ていただくお客様に申し訳ねぇ。ちょっくら待ってくれ。」
「お、あ、そりゃ気がつかなかった。」
 警官は東山をミニパトから出してくれた。
「すぐ戻って来いよ。」
 警官が後ろから声をかけた。遠山はシャッターを上げ、入口のロックを外して店内に入った。警官は車の中から自動ドアのガラス越しにじっとこちらを見ている。ゆるい態度だが、眼は遊んでいない。レーザー光線のような視線が遠山から離れない。遠山はちょっとオーバーな身振りで半紙を帳場の机の上に置き、筆を執った。そしてふっと立ち上がる。
 警官が腰を浮かせた。遠山はその視線に応えるように大きく手を振り、筆を示して字を書く動きをした。そして左手で墨汁のボトルを持ち上げ、左右に振った。たっぷり入っている墨汁のボトルを軽々と空き瓶のように机上に戻すと遠山は警官の動きを制するように手で合図を送る。取ってくるだけだ、というポーズのまま事務所の奥に入った。事務所の奥にはあかり取りの小さな窓がある。その窓を開ける。両手をサッシの下辺におき、鉄棒に上る感じで頭から身を窓外に出す。肩をすぼめて窓枠をクリアし、そのまま一気に外に出ようとしたが、そこで腹がつかえた。
 鋭(えい)っ。遠山は気合いを入れた。少し身体が外に向かって動いた。その分腹部のいちばん太い部分が窓枠に食い込んだ。遠山に出来ることはそこまでだった。今度は戻ろうとしても戻らない。窓枠は遠山の身体にあわせたようにがっちりとその腹部を締め付けている。外側から見るとあたかも彼自身がこの店舗の一部となったように上半身が外壁から飛び出している。店の表側だったらいいオブジェだったかもしれない。
「この店は俺の一部だと思ってきたが、俺がこの店の一部だったのか。うーん、シャレにもならねぇ。」
 遠山がこの期に及んで何等展望の開けない思考をしたところで、眼前に警官の姿が現れた。
「はい、そこまで。ダイエットが必要だったね。と・お・や・ま・さん。」
「………」
「逃げようとしたってことは、犯行を認めたも同然ということだって、刑事物でやってなかったか、と・お・や・ま・さん。それじゃあ、署までご同行と行くべか。貼り紙はこっちでしておいてやるよ。〈都合により当分お休みします〉でいいかい。閉店の表示は奥さんがしてくれるだろうよ。」
〈このお喋り野郎!〉
 遠山は腹の中で毒づいたが、どうにもなるものではなかった。それより体重が窓枠に乗った腹部に圧力をかけてくる。次第にその圧力が遠山にダメージを与えてきていた。苦しい。額に脂汗が滲み始め、北国の爽やかな潮風がその脂汗を吸い取っていく。それは決して心地よいものではなく、遠山に絶望のみならず死の希望すらもたらしそうな苦痛を与えはじめていた。
「うっ、ぐづじい。ひ、ひつばでぃだぢでぐで。」
「なに?苦しいって。引っ張り出してくれ、だと?いいだろう。」
 警官は言葉にならない遠山の言葉を翻訳すると両の手を差し出し、遠山の手を握ると手前に引いた。掌にじっとりまとわりついた苦痛の汗が警官の掌との間で恰好の潤滑油となってズルッと滑った。
「おっとっと。これはいかん。」
 警官はポケットからイチゴ柄で薄桃色のタオルハンカチを取り出して丹念に自分の手を拭いた。そして遠山の掌も拭いてくれた。必要以上に丁寧な拭き方であった。指の一本一本をまるで愛用のジャックナイフの手入れをするように愛おしそうに汗を拭き取ってくれる。
「よく拭いておかないとまた滑るからなあ。」
 左手の人差し指と中指の間の脂を拭き取るときに警官は口を近づけ、ハァーッと息を吹きかけた。警官の口臭が漂ってくる。背筋がぞくっと反応した。ここは耐えなくてはならない。これからの生き方を思うだけで暗澹たる気持ちになった。毎日この口臭の漂いの中で深呼吸をするような日々が待っているのだろう、と思うとこの窓枠から逃れることの方が不幸な気がしてきた。
「さて仕切り直しだ。」
 警官は遠山の手と自分の手をからませ、左足を壁にあてて、ぐぃっと引っ張った。遠山の肉体が少し動いた。ズボンのベルトのあたりが窓枠に引っかかっているのがわかる。
「ようし、肘を曲げて脇を締めろ。」
 脇を締めることで引きしろを確保させるということなのだろう。そうしておいて警官は両足を壁にあて、自らの全体重と鍛え上げた腹筋で遠山の身体を引いた。遠山も両手を引きつけることでそれに応えた。
 ズッズッと身体が外に向かって動いた。しかし、ベルトが窓の内側に残っていくのが実感される。ベルトがブレーキになっている。動きが止まった。これ以上引き出すのはは無理だろうと思った。思ったところで、ゆるんだ腹筋を引き締め、骨盤をグギッとすぼめてみた。
「そら、動いた。もう少しだ、いくぞぉ!」
 警官が生臭い息を吐きながら天を仰いで力を込めた。まるでとおやま酒店の壁に垂直に立っているようだった。
「鋭っ」
 二人の息が合った瞬間が訪れた。ズ、ズーッと遠山の肉体が窓枠の外に向かって加速度をつけて動き出した。ベルト以下が窓枠の内側に残っていく。遠山の逸物が次のブレーキになりそうだったが、動き出した勢いはそれを許さなかった。
「痛っ!」
 叫ぶまもなく遠山の肉体は窓外に飛び出した。引き留める力を失って、警官は後頭部から地面に落ちた。ドシンという音がした。遠山は警官の上に被さって倒れ込んだ。顔面衝突を避けた分、二人の身体は密着度を増して重なった。遠山の右耳と警官の右耳がくっつく感じで二人の男が抱き合った状態になった。逸物が痛い。生暖かいものが自分の股間と警官の股間をぬらしている。ズボンはベルトごと下がり落ちふくらはぎのあたりでとどまっていた。そのショットだけ見たら、遠山が警官を襲っていかがわしい行為に及ぶところに見えただろう。しかし、当人たちにとってはその状況は深刻なものであった。




【お断り】
本作品はフィクションであり、登場する人物、団体等は実在のものとはまったく関係がありません。
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posted by 河東真也 at 11:16| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | 更新情報をチェックする
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