2012年02月22日

厄落とし

今朝の寝起きは悪かった。
かみさんの朝のおしゃべりがちょっとうっとうしく感じる。
朝の仕事の打ち合わせをして、店に出たらやらなければならないことを話しているが頭に入らない。
私は不機嫌なまま家を出た。9時50分だ。いつもより20分ほど遅い。

エレベーターを降りるとヤクルトのおばさんが丁度ドアから入ってくるところだった。
おばさんと言ってしまってはちょっと失礼な気もする。事実、私におばさんと言われたら彼女はきっと憤慨するに違いない。ここはヤクルトお姉さんにしておこう。
その後ろを若い警官がついて一緒に入ってくるのが見えた。
「おはようございます」と声をかけるとヤクルトおねえさんは明るい声で「おはようございますと返してきた。警官はと言うとまるで私のことなど眼中にない様子でなんの反応もせずすたすたと行ってしまった。

ドアを開けるとそこにもう一人、さっきのよりは年配の警官が立っていた。軽のパトカーも停まってる。
「何かあったのですか」と言う私の問いには答えずその警官は「遠山さんですか」と逆に聞いてきた。
「はいそうですが」と答えながら私は言いようのない不安に駆られる。なぜこいつは俺を遠山と思ったのか。その警官は無線で誰かに連絡を取りだした。「本人を確認した、至急戻れ」と言っている。さっきの警官は私を探していたのだ。

「遠山、やすし、さん・・・ですね。ちょっとお話をうかがいたいもので、こちらへどうぞ。」
 警官は遠山をパトカーの方にいざなった。気がつくともう一人の警官が遠山の右側にそっと貼り付いて二人で遠山をはさむような形になっていた。
〈逃げられない〉
 遠山は全身から血がひいていくのを感じていた。それにしても何があったのだろうか。何か仕事上の不始末でもあったか。遠山にはなにが何だかさっぱりわからなかった。軽のパトカーの後部ドアが開いた。後ろから腰のあたりをつくように車内に押し込まれる。遠山の体躯を受け入れるには軽の後部座席はかなり無理をしていた。遠山は這いつくばるように車内に入り、体勢を立て直して座席にすわった。遠山のあとから男が入り込んできた。薄茶のコロンボばりのレインコートを着て、草臥れたハンチングをかぶっている。口に禁煙パイポを咥え、落ち着いたそぶりでふっと息を吐いた。遠山はドアを触ってみた。
「開きませんよ。チャイルドロックがしてある。これでもパトカーですからねぇ。」
 男はもう一度溜息のように息を吐くと、じっと前を向いたままつぶやくように声を出した。
「昨夜行かれたキャバクラのことですが・・・」
「キャ、キャバクラ?!」
 遠山は声がひっくり返っているのを自覚した。自分でも想定していなかった裏声が頭から飛びだした感覚を覚えた。明らかに動揺している自分がそこにいた。
〈落ち着け〉
 遠山は自分に言い聞かせた。
〈俺が何をしたというのか。何もないはずだ。〉
 昨夜、店じまいをすませると遠山は旧友のよっしーと行きつけの居酒屋で一杯やった。
「じゃ、もう一軒行くか。」
「どこって?」
 社交家のよっしーは夜の函館には通じている。遠山だとて商売柄酒を呑ませる店のことならプロではある。とは言え、ここはよっしーに任せることにした。
「少し歩くよ。いいかい。」
「ああ、かまわんぜ、夜風にあたるのもいいもんだ。」
「あ、ここは二千円通しね。」
 よっしーはてきぱきと会計を済ませると外へ出た。雪がちらつき始めている。今夜はなんぼか積もるかもしれない。遠山は先を行くよっしーを小走りで追いかけた。追いついてよっしーに並んだ。
「何処らへんだい?」
「いいとこさ。」
よっしーは電車通りを湯の川方面に向かって歩き始めた。杉並町の電停を過ぎてやや行ったところで左に曲がった。
「こんな住宅街になん店なんてあったかなあ。」
 遠山は不審に思ったが、よっしーはそのまま何も言わずに歩いて行く。二、三度角を曲がると酔いの回ってきた遠山には方向感覚がすこしわからなくなってきた。
〈まあいい、帰りはタクシーでも呼ぶべさ〉
 そう思った頃三階建ての小さなマンションによっしーが入った。
「ここかい?」
「まあね」
よっしーは階段を登って二階に上がり、205と書かれた部屋の前に立った。呼び鈴をおすと鍵を外す音がして、ドアが開いた。
「あら、よっしーさん、おひさしぶり」
「ほら、この間話してたの、連れてきた。遊んでやって。」
「はいはい、どうぞ。」
 ヨッシーの後から遠山はその部屋に入った。マンションの一部屋なのだが、妖しい照明があるものの人の姿が見えるか見えないくらいに暗い。そこそこに広いスペースがあるのだろう、奥の方は暗さに紛れて見えない。その見えない一郭に遠山たちは通された。
 ムターのモーツアルト・ヴァイオリン・ソナタ集がかかっている。こういう曲は遠山にはよくわからない。ただ、皮下脂肪にじんじん来るものがある。ソファは低く、柔らかく、遠山のほろ酔いの身体を受け止めた。よっしーもすわる。
「よろしいかしら」
 若い女が遠山とよっしーの間に割り込んだ。
「オリジナル・カクテル〈辺境〉というのを呑んでみませんこと?」
「あ、それどういうの?」
「小原のコアップ・ガラナに泡盛を注ぎ、醤油を一滴落としたものよ。よっしーさんはいつもこれね。」
「じゃ、俺も、それを・・・」
 女がキッチンの方に消えた。
「こ、こういう店があるんだ。」
「まあね、悪くないだろう。」
 まもなく、大きめのカクテルグラスに不思議な色合いの飲み物が運ばれてきた。
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
 遠山はそのカクテルに口をつけてみた。舌先にがらなの刺激と泡盛の旨味が感じられる。旨いと思った。そしてぐっとグラスを飲み干した。

 と、遠山の記憶はそこで途絶えていた。


 と、ここまでは記憶にあったのだが、
 

  二〇一一年の大晦日は晴れ渡ったいい天気だったが、二〇一二年の元日は小雨模様の不愉快な朝で始まった。そんなことはまだこの夜の遠山には何の意味も持たなかった。遠山は松陰郵便局の前を歩いていた。時計を見た。二時を少しまわっている。「いかん、かみさんに叱られる。」真夜中にこんなところを通ることはまず、ない。出ん首通りに出ようと道を左に曲がる。青地に〈スドー〉とだけ白く抜かれたヘアー・サロン・スドーの丸い標識が見える。スドーの前に立つと〈ヘアー・サロン・スドー〉と左下から右上に斜めにロゴを書いた看板が存在感を示していた。
「作った頃は斬新なデザインだったんだろうが、昭和だなあ。」と一人つぶやいた。まあ、自分の店だってたっぷり昭和の風情を残しているのだが。それはそれで顧客のニーズにかなっている。しかし、こっちはヘアーサロンだろう。そう言えば時代遅れの男という雰囲気に自分は似合っているかもしれないな、と遠山は思った。河島英五の歌に出てくるやつだ。そう言えば、函館を舞台にした「居酒屋兆治」で主演をしていた高倉健の役も俺に似ているのかもしれない。
「にしても・・・」
 遠山はヘアー・サロン・スドーの看板をあらためて見上げた。深夜の薄暗い街灯に浮かび上がる看板がわびしさを誘う。
「あれ?よっしーはどうしたんだろう。」
 遠山はよっしーと呑んだことを振り返ってみたが、どこかで記憶が途切れ、何も覚えていない。どこかキャバクラのようなところに行ったような気がするだけだ。気になってポケットをまさぐると財布があった。中をあらためてみたが、最初の居酒屋で二千円通しで払い、よっしーから割り勘分をもらって残った八千円が残っている。
「あの店では払わなかったのだろうか。」
 遠山は不審に思ったが、八千円が財布にあるかぎりその店での支払いはなかったことになる。よっしーが払ってくれたのかもしれないが、そんなことはあるまい。いや、そんな店なんかには行ってないのかもしれない。なんせ記憶が曖昧なのだ。
「じゃあ、俺は今まで何処にいたのだ。」
 電車通りに出た。深夜の函館はさびしい。その寂しさを訴えるような一陣の風が遠山を撫でるように吹き抜けていった。
「あれ?」
 風に吹かれて遠山は違和感を感じた。少し戻って電車通りを離れ、立ち小便を試みた。まさぐってみると、ない。なんと、パンツを穿いてないのだ。
「えーっ!何処に忘れてきたのだ。えっ、えっ、どうしよう。」
 遠山は狼狽えた。忘れてきたということはどこかで脱いだということではないか。そんなことは記憶にない。ありえない。というより、あってはいけない。そういう問題なのだ。ともかく遠山は家路を急いだ。
 マンションに辿り着いた。時計は二時半をまわっている。空が白みかかってきていた。遠山はそっとキーを差し込み、ドアを開けようとしたが、ガチッとドアは微妙な音を立てて止まった。なんとチェーンがかかっているではないか。
「やられた」
 これで二度目だ。仕方がない。ポケットからやすりを取り出し、チェーンにあてた。丹念に、そして静かに小一時間ほどゴシゴシやって、ようやくチェーンを切り落とすと、音を立てないように浴室に入った。とにかくパンツを穿いていないことがかみさんにばれてはいけないのだ。下着の入った棚からパンツを二枚取り出すと一枚を洗濯籠に放り込み、風呂に入った。風呂はすっかり冷め切っていた。しかし、何とか危機は切り抜けたはずだ。風呂が熱くなるのを待って湯から出ると窓の外はすっかり明るくなっていた。

 眼を覚ますとかみさんが枕元に立っていた。
「昨夜は何時まで呑んだの?」
「い、いや、ちょっと。い、一時くらいではないかな。」
「あたしはまだ起きてたよ。」
「い、いや、二時だったかもしれん。二時だろう。」
「ふん、嘘つき。二時四二分。物音がすると思って覗いてみたらあんたごそごそやってたよね。」
「あ、ばれた?」
「ばれたもなんも呆れたもんだね。やすりで自分ちのドア・チェーンを切るなんて。」
「なら、開けてくれてもいいのに・・・・」
「おや、あたしと顔を合わせられたかい。武士の情けよ。」
 何が武士の情けじゃい。と思いはしたが、ここで言い争うよりは忘れてもらった方がいい。そう思い直して、今日の仕事の段取りを確認し始めたのであるが、そこに長年の常連客から電話がかかってきた。もうかみさん同士はお互いに家族の事情まで知り尽くしているような仲なので話が長い。三〇分ほど話し込んでいた。内容はたいした話ではない。そのしょうもない話をこの忙しいときにしなくてもいいべさ。といらだちもしたが、それは何も言える立場ではなかった。電話を切るとかみさんがその客の娘が駆け落ちした件について滔々と語り出した。珍しくもない。これで四度目だ。
「でもねぇ、今度の男はまた格別いい男なんだってよ。」
「この間の、ええと、夏だったかな。あの男と別れたばかりだろう。」
「生木を引き裂くようにね。あの時もかわいそうだったわ。」
「まだ、半年も経ってねえべや。大体あの親父、娘が連れてきた男は全部問答無用で反対し、その夜は夜中まで大喧嘩して、夜明けを待って娘が男と手に手を取って出奔する、ってのが今までのパターンだったよな。今度もかい?」
「いいえ。今度はね、あのお父さんが包丁を持ちだしてね、ぶっ殺してやるぅ!って斬りかかったそうよ。そしたら今度の男、負けずにバタフライナイフを取り出して応戦したらしいの。」
「で、刃傷沙汰になったのかい?」
「そこはおとな同士よ。お父さんが、やめたやめた勝手にしろ!とか言ってふて寝しちゃったのでその隙に逃げ出したみたい。だから、今度は始発じゃなくて最終に間に合ったって、奥さんが言ってたわ。それでね、その最終列車に……」
 いつものつまらない話に遠山はだんだん不機嫌になってきた。朝の仕事の打ち合わせをして、店に出たらやらなければならないことを話しているが頭に入らない。
私は不機嫌なまま家を出た。9時50分だ。いつもより20分ほど遅い。

 そこまで記憶を辿ってみたが、警官の言う「キャバクラ」のことについて考えてみた。昨夜行ったあの店はキャバクラというのか。キャバクラ?何処にも書いてなかったな。普通のマンションの一室みたいだったし。
「あの、そんな店は知りませんけど。」
「それならね、これに覚えはないかい?」
 警官は遠山の眼前にビニール袋に入った証拠品のようなものを突きつけた。よく見るとパンツだ。
「ほら、ここにね、とおやまやすしと書いてあるべ?」
 確かにパンツには白い布が縫い付けてあってそこに住所と〈とおやまやすし〉という文字がマジックで書かれていた。まちがいなく遠山のなくしたパンツのように思えた。


【お断り】
本作品はフィクションであり、登場する人物、団体等は実在のものとはまったく関係がありません。
posted by 河東真也 at 11:15| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

厄落とし2

 遠山は昨夜の記憶を辿ってみたが、この話が最初から繰り返されたようにそれ以上のなにも出てこない。問題はどこでパンツを脱いだか、だ。パンツを脱ぐような場面、それ自体に対する想像力そのものが遠山にはないのだ。結婚して三五年になるが、この間に家の外でパンツを脱いだのは痔の手術の時だけであった。そのくらい遠山は実直であった。
「な、これがあんたのものではないとしらを切るつもりかい?」
 警官が問い詰めた。
「い、いや自分のもので……」
「ほう、吐いたな。じゃ、何でここにおまえの汚らしいパンツがあるのか、説明してみるかい?」
 そう言われても遠山には思い当たるふしはなかった。しかし、ちょっと違和感を感じた。
「ちょっと、おまわりさん。そのパンツ、もう一回見せてください。」
 遠山はそのパンツをビニール越しに観察した。確かに汚れている。桃色のパンツのそのあたりにそのように汚れが付着している。身体の動きの後が想像される擦れたような汚れ方で、穿いていた人物のぬくもりが伝わってくるような身体感を内包した使用済感に満ちていた。証拠品ではなくとも直に手に触れようとは思いたくないリアリティが主張されていた。遠山は仔細に証拠品をビニール袋を通して点検した。
「これが何処にあったというのですか?」
「遺体のそばさ。」
「遺体?」
「おっと、聞かなかったことにしてくれ。事件はまだ始まったばかりなのでね。まあ、いいさ、おまえがこれを知っていることは犯人だけが知る秘密になるから都合がいい。俺は何も言っていない。だからおまえが犯人だということになる。」
 え、冤罪ではないか。こうやって冤罪は作られるのか。遠山の脳裏を日本の裁判史上に残るいくつかの冤罪事件がよぎった。証拠品袋を持った手がぶるぶる震えた。改めてそのパンツを見つめ直した。自分の人生がかかっているのだ。
「ちがう!」
 遠山は叫んだ。
「ちがう、ちがう、ちがう!」
 遠山はミニパトのドアを開けようとしたが開かない。チャイルドロックが効いていた。
「ふふふ、あがいても無駄だぜ。道警をなめたらいかんぜよ。さあ、行こうかね。と・お・や・ま・・さん。」
 警官は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「話はゆっくり署で聞こうかね。」
 遠山はじっと汚れたパンツの入ったビニール袋を見つめていた。自分の運命を呪った。こんなことで自分の人生が終わりを告げるとはさっきまで考えだにしなかったことだ。全国の酒蔵をめぐり、自分の舌で確かめてきた。いい酒だけを売りたい、というポリシーでここまでやってきた。そして着実に社会的信頼を獲得してきたところだ。ここで、犯罪になんか巻き込まれて今までの努力を無駄にしてたまるもんか。遠山は警官を睨みつけて言った。
「あのね、おまわりさんよ。こんなことで私の人生を台無しにはしたくないんだわぁ。今日から一週間ばかり店を休むからさ、きっちり潔白を証明したいんだな。いいべか。」
「おう、そう言ってくれりゃあ話は早い。さ、行くべ。おい、鈴木、署に行くぞ。車を出せや。」
「待て。店を休むと貼り紙くらいしねぇとせっかく来ていただくお客様に申し訳ねぇ。ちょっくら待ってくれ。」
「お、あ、そりゃ気がつかなかった。」
 警官は東山をミニパトから出してくれた。
「すぐ戻って来いよ。」
 警官が後ろから声をかけた。遠山はシャッターを上げ、入口のロックを外して店内に入った。警官は車の中から自動ドアのガラス越しにじっとこちらを見ている。ゆるい態度だが、眼は遊んでいない。レーザー光線のような視線が遠山から離れない。遠山はちょっとオーバーな身振りで半紙を帳場の机の上に置き、筆を執った。そしてふっと立ち上がる。
 警官が腰を浮かせた。遠山はその視線に応えるように大きく手を振り、筆を示して字を書く動きをした。そして左手で墨汁のボトルを持ち上げ、左右に振った。たっぷり入っている墨汁のボトルを軽々と空き瓶のように机上に戻すと遠山は警官の動きを制するように手で合図を送る。取ってくるだけだ、というポーズのまま事務所の奥に入った。事務所の奥にはあかり取りの小さな窓がある。その窓を開ける。両手をサッシの下辺におき、鉄棒に上る感じで頭から身を窓外に出す。肩をすぼめて窓枠をクリアし、そのまま一気に外に出ようとしたが、そこで腹がつかえた。
 鋭(えい)っ。遠山は気合いを入れた。少し身体が外に向かって動いた。その分腹部のいちばん太い部分が窓枠に食い込んだ。遠山に出来ることはそこまでだった。今度は戻ろうとしても戻らない。窓枠は遠山の身体にあわせたようにがっちりとその腹部を締め付けている。外側から見るとあたかも彼自身がこの店舗の一部となったように上半身が外壁から飛び出している。店の表側だったらいいオブジェだったかもしれない。
「この店は俺の一部だと思ってきたが、俺がこの店の一部だったのか。うーん、シャレにもならねぇ。」
 遠山がこの期に及んで何等展望の開けない思考をしたところで、眼前に警官の姿が現れた。
「はい、そこまで。ダイエットが必要だったね。と・お・や・ま・さん。」
「………」
「逃げようとしたってことは、犯行を認めたも同然ということだって、刑事物でやってなかったか、と・お・や・ま・さん。それじゃあ、署までご同行と行くべか。貼り紙はこっちでしておいてやるよ。〈都合により当分お休みします〉でいいかい。閉店の表示は奥さんがしてくれるだろうよ。」
〈このお喋り野郎!〉
 遠山は腹の中で毒づいたが、どうにもなるものではなかった。それより体重が窓枠に乗った腹部に圧力をかけてくる。次第にその圧力が遠山にダメージを与えてきていた。苦しい。額に脂汗が滲み始め、北国の爽やかな潮風がその脂汗を吸い取っていく。それは決して心地よいものではなく、遠山に絶望のみならず死の希望すらもたらしそうな苦痛を与えはじめていた。
「うっ、ぐづじい。ひ、ひつばでぃだぢでぐで。」
「なに?苦しいって。引っ張り出してくれ、だと?いいだろう。」
 警官は言葉にならない遠山の言葉を翻訳すると両の手を差し出し、遠山の手を握ると手前に引いた。掌にじっとりまとわりついた苦痛の汗が警官の掌との間で恰好の潤滑油となってズルッと滑った。
「おっとっと。これはいかん。」
 警官はポケットからイチゴ柄で薄桃色のタオルハンカチを取り出して丹念に自分の手を拭いた。そして遠山の掌も拭いてくれた。必要以上に丁寧な拭き方であった。指の一本一本をまるで愛用のジャックナイフの手入れをするように愛おしそうに汗を拭き取ってくれる。
「よく拭いておかないとまた滑るからなあ。」
 左手の人差し指と中指の間の脂を拭き取るときに警官は口を近づけ、ハァーッと息を吹きかけた。警官の口臭が漂ってくる。背筋がぞくっと反応した。ここは耐えなくてはならない。これからの生き方を思うだけで暗澹たる気持ちになった。毎日この口臭の漂いの中で深呼吸をするような日々が待っているのだろう、と思うとこの窓枠から逃れることの方が不幸な気がしてきた。
「さて仕切り直しだ。」
 警官は遠山の手と自分の手をからませ、左足を壁にあてて、ぐぃっと引っ張った。遠山の肉体が少し動いた。ズボンのベルトのあたりが窓枠に引っかかっているのがわかる。
「ようし、肘を曲げて脇を締めろ。」
 脇を締めることで引きしろを確保させるということなのだろう。そうしておいて警官は両足を壁にあて、自らの全体重と鍛え上げた腹筋で遠山の身体を引いた。遠山も両手を引きつけることでそれに応えた。
 ズッズッと身体が外に向かって動いた。しかし、ベルトが窓の内側に残っていくのが実感される。ベルトがブレーキになっている。動きが止まった。これ以上引き出すのはは無理だろうと思った。思ったところで、ゆるんだ腹筋を引き締め、骨盤をグギッとすぼめてみた。
「そら、動いた。もう少しだ、いくぞぉ!」
 警官が生臭い息を吐きながら天を仰いで力を込めた。まるでとおやま酒店の壁に垂直に立っているようだった。
「鋭っ」
 二人の息が合った瞬間が訪れた。ズ、ズーッと遠山の肉体が窓枠の外に向かって加速度をつけて動き出した。ベルト以下が窓枠の内側に残っていく。遠山の逸物が次のブレーキになりそうだったが、動き出した勢いはそれを許さなかった。
「痛っ!」
 叫ぶまもなく遠山の肉体は窓外に飛び出した。引き留める力を失って、警官は後頭部から地面に落ちた。ドシンという音がした。遠山は警官の上に被さって倒れ込んだ。顔面衝突を避けた分、二人の身体は密着度を増して重なった。遠山の右耳と警官の右耳がくっつく感じで二人の男が抱き合った状態になった。逸物が痛い。生暖かいものが自分の股間と警官の股間をぬらしている。ズボンはベルトごと下がり落ちふくらはぎのあたりでとどまっていた。そのショットだけ見たら、遠山が警官を襲っていかがわしい行為に及ぶところに見えただろう。しかし、当人たちにとってはその状況は深刻なものであった。




【お断り】
本作品はフィクションであり、登場する人物、団体等は実在のものとはまったく関係がありません。
posted by 河東真也 at 11:16| 福岡 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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